AIに「泣ける話」を頼んだら、母の愛の物語が返ってきた
母が最初に倒れたのは、僕が中学二年生の時だった。
医師から「覚悟をしておいてください」と言われた時、僕は泣くどころか、妙に冷めた気持ちでその白衣の男を見ていた。
(何言ってんだ、こいつ。母さんが死ぬわけないだろ)
あまりに非現実的すぎて、きっと脳が現実を直視するのを拒否したのだ。
入退院を繰り返す生活が始まってからも、僕のその感覚は変わらなかった。
なぜなら、病院にいる時の母は、いつだって「不真面目」だったからだ。
「あ、啓太。来てくれたの? 見て見て、この芸人めっちゃ面白いよ」
見舞いに行くと、母はいつもベッドの上でバラエティ番組を見て、ケラケラと笑っていた。
癌病棟の重苦しい空気などお構いなしだ。
僕が深刻な顔で「体調はどう?」と聞いても、「んー? 今は全然平気。それよりさ、コンビニで新作のプリン買ってきてよ」と、お使いを頼ん
でくる。
(この人は、自分が死ぬかもしれないって分かってるのか?)
僕は次第に、母に対して苛立ちを覚えるようになった。
こっちは毎日不安で、夜も眠れないのに。当の本人がこんなに能天気で、危機感がないなんて。
母の頬がこけてきても、点滴の数が増えても、彼女は僕の前では必ず派手な口紅を塗り、「病院食は味が薄い」と文句を言い続けた。
「母さんは強いね。病気のことなんて気にしてないみたいだ」
ある日、皮肉交じりにそう言うと、母は鏡で前髪を直しながらあっけらかんと言った。
「だって、暗い顔したって治るわけじゃないしねぇ」
僕はその言葉を聞いて、見舞いに行く回数を減らした。
母の「強さ」が、僕には「現実逃避」に見えて、腹が立ったからだ。
そして5年が経ち、僕が19歳になった秋。
母は、あっけなく逝った。
最期まで、苦しい素振りも見せず、眠るように。
通夜が終わった後、病院へ荷物を引き取りに行った時のことだ。
ずっと母を担当していた看護師さんが、僕に一冊のノートを手渡してくれた。
「お母さん、啓太くんが来る前は、いつもこれで時間を計っていたのよ」
それは、痛み止めの管理記録だった。
中を見て、僕は息が止まった。
そこには、分刻みで壮絶な闘いの跡が記されていた。
『14:00 激痛あり。でもまだ薬は飲まない』
『14:30 痛みが限界に近い。でも、16時に啓太が来るかもしれない』
『15:30 ここで強い鎮痛剤を使う。副作用で眠くなるけど、啓太が来る頃にはちょうど痛みが引いて、笑顔で喋れるはず』
母が「不真面目」に見えていたあの時間は、すべて計算された「演技」だったのだ。
看護師さんが静かに言った。
「お母さん、痛みが強くなると、どんなに苦しくてもお化粧を始めるの。『あの子に、やつれた死にそうな顔を見せたくない。いつもの元気な母
さんとして記憶に残りたいの』って」
僕の前で見せていたあの明るさも、派手な口紅も、バラエティ番組への笑い声も。
すべては、現実を受け入れられずに怯えていた僕を、安心させるための必死の演出だった。
身を切り裂くような激痛を、笑顔の仮面一枚で押さえ込んでいたのだ。
「……嘘つきだよ、母さん」
僕は誰もいない病室で、冷たくなったベッドに顔を押し付けた。
母さんは現実逃避なんてしていなかった。
僕なんかよりずっと深く、自分の「死」という現実を見つめ、それと闘いながら、最期の瞬間まで「母親」であろうとし続けてくれたのだ。
涙で滲んだノートの最後のページには、震える文字でこう書かれていた。
『今日も啓太が笑ってくれた。』
